札幌開拓の礎を伝える札幌村郷土記念館

札幌市東区にある「札幌村郷土記念館」をご存知ですか?
地下鉄駅からもほど近いこの記念館は、札幌の開拓の祖ともいわれる大友亀太郎が礎を築いた「札幌村(現在の札幌市東区)」の歴史を今に伝える場所です。
この記事では、大友亀太郎や札幌村の歩みをたどりながら、記念館の様子を紹介します。
記念館への訪問
札幌村郷土記念館は、札幌市営地下鉄環状通東駅からほど近い場所にあります。
大友亀太郎の役宅跡地に開館したこの記念館は、札幌村の歴史を後世に伝えるべく昭和52(1977)年に誕生しました。

実は筆者には、小学生の頃に校外学習で札幌村郷土記念館らしき市内の郷土資料館を訪ねた記憶があります。
あの時以来、数十年ぶりに訪れた記念館は、レンガ色の落ち着いた佇まいで筆者を出迎えてくれました。
前庭には大友亀太郎像をはじめとする数多くのモニュメントが並び、入館前から郷土の歴史に触れる期待感が高まります。

2階建ての記念館内には、札幌市指定有形文化財「札幌村・大友亀太郎関係歴史資料」114点を含む約2,760点もの資料が所蔵されています。
1階では昔の農機具類を中心に、2階では主に生活用品や文書類が展示され、札幌村の歩みを物語る貴重な史料と対面することができます。
札幌開拓の礎を築いた男、大友亀太郎
大友亀太郎は、天保5(1834)年に現在の神奈川県小田原市の農家に生まれました。
家業を手伝う傍ら幼い頃から勉学に励んだ亀太郎は、「人の一生は、金銀財宝に富めるのみが富にあらず、積善の道こそ富である」と考え、22歳の時に農村改革の指導者として知られた二宮尊徳の弟子となり、その思想と手法を学びました。

記念館前の大友亀太郎像は、昭和61(1986)年に北1条橋の袂に建てられたものの複製です。
創成川公園の整備工事に伴い記念館の前庭に一時移設された銅像が、創成川の河畔に戻る際に複製されました。
安政5(1859)年、幕府の要請により尊徳門下生が蝦夷地開拓に協力することとなり、亀太郎は武士の身分を与えられ函館に渡ります。
開墾場取扱に任じられた亀太郎は、木古内村と大野村に御手作場(開墾農場)を開設しました。
その仕事ぶりが評価され、慶応2(1866)年には石狩地方の開墾を命じられます。
自ら石狩の原野を調査し、伏古川のほとり(現在の札幌村郷土記念館付近)を適地と見定めて御手作場の造成を開始。
用排水路(のちの大友堀)や橋、道路を建設し、その開拓を進めました。

(北海道大学付属図書館蔵)
明治維新後も開拓使の元で働いていた亀太郎が北海道を去ったのは、明治3(1870)年のこと。
その後、各地で官吏を歴任し故郷へ戻ると、明治14(1881)年に神奈川県会議員となって4期を務め、明治30(1897)年にその生涯を終えました。
御手作場から札幌村へ~移民たちの入植~
大友亀太郎が石狩に開設した御手作場には、慶応2(1866)年から慶応4(1868)年末までの期間に、東北・北陸地方出身者を中心とした23戸95人が移住し、開拓を進めました。
明治維新後、北海道の開拓は新政府が設置した開拓使によって進められることになります。
明治3(1870)年には御手作場の周辺にも本州からの移民が以下のように相次いで入植し、御手作場は札幌元村と呼ばれるようになりました。
- 庚午一ノ村(苗穂村):山形県から36戸120人
- 庚午二ノ村(丘珠村):山形県から30戸90人
- 庚午四ノ村(札幌新村):新潟県から22戸96人

(北海道大学付属図書館蔵)
明治35(1902)年、北海道に町村制が施行されると、これらの村々に雁来村(明治6年に宮城県から19戸が移住)を加えた4村が合併し、新たに「札幌村」が誕生しました。
その後、札幌市街の発展に伴い村の一部が幾度か札幌区(現在の札幌市)に編入されましたが、残る全域も昭和30(1955)年に札幌市へ合併され、地図上から札幌村の名が消えることとなったのです。
札幌村の発展とタマネギ栽培
札幌村の村域は平坦で、中小の河川が流れるその流域には肥沃な沖積土が堆積した地味豊かな土地でした。
開拓使や札幌農学校からほど近く農業指導を受けやすいという利点もあり、明治10(1877)年頃の札幌村では、リンゴやブドウなどの果樹や蔬菜類など様々な作物が栽培されていました。

(北海道大学付属図書館蔵)
タマネギもそうして栽培が始まった作物の一つです。北海道にタマネギが導入されたのは明治4(1871)年のことで、開拓使が米国から輸入した種子を札幌で試作しました。
明治13(1880)年には札幌村の中村磯吉が本格的な栽培を行い東京で販売しようとしましたが、水路による輸送の困難さやタマネギの需要の少なさもあり、この試みは失敗に終わりました。

札幌村で生産されたタマネギ「札幌黄」の原種の導入や、その栽培技術の指導に尽力したブルックス博士を顕彰する「ブルックス顕彰記念碑」。
博士は明治10(1877)年に来日し、お雇い外国人としては最長となる11年7ヶ月の任期の間、北海道の農業の発展に大きく貢献しました。
その後の明治16(1883)年、札幌農学校のウィリアム・ペン・ブルックス博士の指導を受けた武井惣蔵が良質なタマネギを生産。
販売を商人に委ね、輸送手段として札幌~手宮間に開通した鉄道を活用できるようになったことなども相まって、大量生産・販売の道が開かれました。
伏籠川流域の土壌がタマネギの生育に適していたこと、当時盛んだった果樹栽培が病害虫による被害を受けたこと、日清および日露戦争に伴う需要の増加などが重なり、明治20年代から30年代にかけて栽培が広がり、タマネギは札幌村の特産品となりました。
記念館の前庭に建つ「札幌玉葱記念碑」は昭和53(1978)年建立。
誇らしげな「わが國の玉葱栽培この地にはじまる」の碑文が印象的です。

札幌市内では今もタマネギを栽培する農家はわずかとなりましたが、札幌村から始まった日本のタマネギ栽培は、現在では全国に広まっています。
記念館に息づく歴史資料たち
ここでは、札幌村郷土記念館に展示されている資料について、特に興味深かったものをいくつか紹介します。

1階展示室の床に貼られた、大友堀の経路が書き込まれた大きな航空写真。
大友堀が創成川の一部となり、札幌の街割りを南北に分ける基点となっていることが一目でわかります。
有形文化財を含む数多くのタマネギ栽培用具が展示されている中でも、玉ねぎ乾燥機(1/3ミニチュア)の茅葺き屋根はひときわ目を惹きます。
収穫したタマネギは品質向上のため乾燥させる必要がありますが、この乾燥機は札幌村のタマネギ農家の工夫により作り出されたものです。


かつては各農家に最低1頭はいたというドサンコ(北海道和種)。
畑を耕す動力に、馬糞は堆肥に、タマネギの出荷にと、農業に欠かせないパートナーでした。
馬の剥製を使った展示は、リアルで見応えがあります。
ストーブや火鉢など、寒さをしのぐための道具がずらり。
燃料も形も実に多彩なストーブから、北海道の厳しい冬を乗り越えようとする人々の切実な思いが伝わってきます。


2階展示室の見どころは、札幌市の有形文化財である大友亀太郎関係資料。
御手作場の運用に際し亀太郎が幕府に提出した書類など古文書が中心ですが、中には大友亀太郎愛用のソロバンなども展示されています。
札幌市の無形文化財である丘珠獅子舞は、富山県からの移住者により伝えられたもの。
記念館には明治30年代から昭和40(1965)年まで使われていた二代目の獅子頭が展示されています。


歌人・石川啄木の函館時代の同僚で、その短歌のモデルとなった橘智恵子は、札幌元村でリンゴ栽培を手がけた家の出身です。
記念館には彼女の名が記された尋常小学校の学籍簿などが展示されています。
開拓者たちの想いが息づく場所

札幌村郷土記念館を訪れて、札幌の、そして東区の原点にある開拓者たちの情熱と苦労を感じることができました。
大友亀太郎が築いた大友堀は、一部が今も創成川として札幌の街を流れ、その事績と大友堀遺構は2018年に北海道遺産にも選定されています。
小さな記念館ですが、札幌開拓の礎となった人々の営みが詰まった貴重な場所。歴史好きはもちろん、札幌に住む人もそうでない人も、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
アクセス
アクセス:札幌市営地下鉄「環状通東」駅より徒歩3分、中央バス「環状通東駅前」停留所より徒歩3分
開館時間:10:00 ~ 16:00
休館日:月曜日、祝日の翌日、年末年始(12/29~1/5)
入館料:無料
公式HP:札幌市HP
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参考文献
「東区今昔1」(札幌市東区役所総務部総務課 編/1979年)
「新札幌市史 第1巻 通史1」(札幌市教育委員会 編/1989年)
「さっぽろ文庫45 札幌の碑」(札幌市教育委員会 編/1988年)
「新札幌市史 第2巻 通史2」(札幌市教育委員会 編/1991年)
「さっぽろ文庫60 札幌人名事典」(札幌市教育委員会 編/1993年)
「札幌の郷土資料館」(札幌市HP)
「札幌の文化財(web版)」(札幌市HP)
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