厚別の開拓とともに歩んだ信濃神社

JR北海道函館本線の厚別駅からほど近くに鎮座する信濃神社。
かつて「信州開拓地」や「信濃開拓地」と呼ばれた地域一帯の総鎮守として、開拓の頃から崇敬を集めてきました。
現在でこそ、JRと地下鉄の駅が集まる新さっぽろ駅周辺が地域の中心となっていますが、かつては厚別駅からほど近いこの神社周辺こそが、地域発展の中核をなしていたのです。
この記事では、140年余りにわたって地域の歴史と深く結びついた信濃神社の歩みと見どころをご紹介します。
信濃神社のご由緒
厚別地区開拓のはじまり:長野県人8戸の入植

信濃神社の鎮座する厚別一帯の開拓は、明治16(1883)年に河西由造を始めとする8戸の長野県人が入植したことに始まります。
これは、明治10(1877)年頃に札幌に移住していた同郷の上島正の勧めによるものでした。
河西由造らは、明治15(1882)年に横浜から船に乗り小樽に上陸。
いったん上島宅に落ち着いた後、現在のJR厚別駅周辺を開墾地として定め、翌年に本格的な入植を果たしました。
故郷の神を迎えた信濃神社の創祀
北海道に渡った入植者たちは、故郷の諏訪大社のご分霊を奉持していました。
このご分霊は上島正宅に安置され、後に諏訪神社(札幌市東区)となっています。
長年の間、信濃神社はこの諏訪神社から分霊を受けて創祀されたといわれてきました。
しかし『信濃神社百年』では、両神社の祭神名の相違や当時の諏訪神社に宮司がいなかった点などから、信濃神社のご祭神は、河西由造らが明治15(1882)年から30(1897)年の間に、諏訪大社から直接ご分霊を受けたものではないかと推測しています。
公認神社への道のり:稲作成功と入植者の増加

厚別に入植した河西由造らは、諏訪大社のご分霊を祀った祠を心の支えに水田の開墾を進め、稲作に成功しました。
明治22(1889)年頃には国道12号線が厚別まで延伸し、明治27(1894)年には厚別駅が開業。
信州出身者が多かったことから「信州開墾地」と呼ばれるようになった地域に、ますます入植者が増加していきました。
そのような中で、信濃神社が神社としての公認を受けたのは明治30(1897)年のことです。
神社はそれまで厚別川の堤防近くの線路沿いに位置していましたが、公認神社となるにあり、河西由造が現在の境内地を寄付。
新たに社殿を造営しました。
村社昇格と戦前の発展

厚別駅の開業以降、信濃神社の表参道が面する道(現在の道道325号線)は「停車場通」と呼ばれ、多くの商店が立ち並ぶ厚別の中心として発展しました。
神社も明治後期から大正時代にかけて、社務所の新築など境内の整備が進み、現在も残る忠魂碑が建立されるなどしました。
また、昭和4(1929)年には、旧白石村の村社に昇格しています。
戦後復興から現代へ:新札幌副都心の誕生と神社の歩み
太平洋戦争後の昭和25(1950)年、白石村が札幌市と合併し、厚別も札幌市の一部となりました。
人口増加に対応してひばりが丘団地をはじめとする市営団地が作られ、農村だった厚別は宅地化が進みます。
昭和48(1973)年にJR新札幌駅、昭和57(1982)年には地下鉄新さっぽろ駅が開業し、札幌の副都心として発展。平成元(1989)年には厚別区が誕生しました。

この間も信濃神社は鎮守社として、80周年に社殿造営、90周年に八坂刀売命の合祀、100周年に社務所新築など、10年ごとの記念事業で境内整備を進めています。
信濃神社のご祭神
信濃神社には、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)、上毛野君田道命(かみつけのきみたみちのみこと)の三柱の神様がお祀りされています。
建御名方富命
諏訪大社からご分霊を受け、神社の創祀からお祭りされているご祭神です。
日本神話では大国主命の御子神とされ、農業や狩猟を司る神として、また、武神として広く信仰されています。
八坂刀売命
建御名方富命の妃神で、19柱の御子神を儲けたとされることから、夫婦円満、子授けや安産のご利益があるとされています。
神社の鎮座90年を機に、昭和63(1988)年にご祭神としてお祀りされました。
上毛野君田道命
厚別の旧旭町地区にあった「旭町神社」のご祭神で、国道12号線の開発に伴い、昭和19(1944)年(一説には昭和17(1942)年)に信濃神社に合祀されました。
信濃神社の境内
社殿

現在の社殿は、鎮座80周年を記念して昭和53(1978)年に造営された2代目のものです。
初代の社殿が造営された年は資料によって異なりますが、明治30年代前半に建てられました。
なお、初代社殿は札幌開拓の村に移設保存されています。
牛頭天王社

地域住民が祀っていた牛頭天王の神像を、昭和57(1982)年に神社境内に移したものです。
牛頭天王は神仏習合の神で、疫病を司るとされます。
また、信濃神社のご祭神である建御名方富命の先祖神であるスサノオ神と同一視されることもあり、境内社として現在地にお祀りされています。
狛犬


信濃神社には二対の狛犬があります。
社殿前の一対は戦後に奉納された新しいもので、参道にある一対は大正12(1923)年に奉納されたものです。
大正時代奉納の狛犬は白石神社のものとよく似た姿形をしており、札幌市内の狛犬では馴染み深い札幌軟石製。
装飾が少なくシンプルですらっとしていますが、お顔は獅子頭にも似て少し威厳のある表情をしています。
歴史を刻む石碑群
頌徳碑
厚別地区の最初の入植者の一人であり、地域の発展に大きな役割を果たした河西由造の功績を後世に伝えるべく、昭和13(1938)年に建立されました。
河西は信濃神社の設立にも世話人として関わり、信濃小学校の敷地や神社境内地の寄付、村総代など様々な公職を務めました。
明治44(1911)年に病没した際は、全村民が葬儀に参加したといわれています。
高さ4mに及ぶ石碑の姿は、その功績や人徳を表すかのような威容を誇ります。
忠魂碑および合祀碑

参道の入口近くに並ぶ大小二つの碑です。
向かって右の大きい方が忠魂碑で、旧白石村の日清および日露戦争の戦没者を慰霊すべく、大正9(1920)年に建てられました。
建立時に刻まれた戦死者は3名でしたが、その後、日中戦争、太平洋戦争と相次ぐ戦争の中で、250余名の戦没者の名前が、碑石のみならず礎石にまで刻まれるようになっていきます。
そして、終戦から10年後の昭和30(1955)年、忠魂碑に合祀されていなかった旧白石村の戦没者を慰めるべく、300余名の名が刻まれた合祀碑が忠魂碑に並んで建立されました。
万葉歌碑

山上憶良の著名な一首「しろかねも/くかねも玉も/何せんに/まされる宝/こにしかめやも」の歌碑です。
白石村長を務めた鷲田彌太郎が、戦死した我が子の追善供養のために建立。
昭和15(1940)年の建立当初は楠木正成の銅像が立っていましたが、戦時中の金属回収令で失われ、戦後の昭和30(1955)年に残されていた台座の上に現在の歌碑が置かれました。
「子に勝る宝なし」と詠む一首に、激動の時代の記憶と父の愛情が込められています。
馬頭碑
開拓期から戦後まで農作業に欠かせなかった馬を祀る馬頭碑で、昭和29(1954)年に建立されました。
当時流行した馬の伝染病(馬伝染性貧血)により殺処分された農耕馬と、戦争で徴用された馬の供養のために建てられたものと伝わっています。
札幌市内に数多く存在する馬頭碑の一つとして、人々と馬との深い絆を物語っています。

厚別開基百年之碑

明治16(1883)年に河西由造をはじめとする8戸が厚別に入植してから100年の節目を迎えることを記念し、昭和57(1982)年に建てられました。
同年3月には地下鉄東西線の延伸により新さっぽろ駅が開業し、新札幌副都心としての発展がますます進んだ年にあたります。
信濃神社御鎮座百年記念碑

平成10(1998)年、神社の鎮座から100年を迎えるのを記念して立てられた石碑です。
長い歴史を刻んできた信濃神社の節目を示す記念碑として、境内に静かに佇んでいます。
厚別開拓の心を伝える信濃神社

明治16(1883)年の入植から140年余り。信濃神社は、故郷を離れた開拓者たちの心の支えとして始まり、地域の発展とともに歩んできました。境内に残る数々の石碑は、厚別の人々が刻んだ歴史の証人です。
現在もなお、諏訪の神々は新旧住民の暮らしを見守り続けています。開拓者の精神と地域の記憶が息づく信濃神社へ、ぜひ一度足を運んでみてください。
アクセス
アクセス;JR「厚別駅」から徒歩5分、地下鉄東西線「新さっぽろ駅」またはJR「新札幌駅」から徒歩5分
こちらもおすすめ
[PR]もっと詳しく知りたい方へのオススメ書籍
|
参考文献
「厚別開基百年史」厚別開基百年記念事業協賛会編集部/編(1982年)
「さっぽろ文庫39 札幌の寺社」(札幌市教育委員会 編/1986年)
「さっぽろ文庫45 札幌の碑」(札幌市教育委員会 編/1988年)
「あつべつ区再考 自然・ひと・歴史」札幌市厚別区市民部総務課/編(1994年)
「信濃神社百年」信濃神社百年編集委員会/編(2000年)
「厚別中央 人と歴史」厚別中央地区まちづくり会議/編(2010年)
「ほっかいどうの狛犬」(丸浦正弘 著/2007年)
「厚別区20周年記念 あつべつワールド」札幌市厚別区市民部総務企画課広聴係/編(2009年)
[PR]RWCは人事業界の家庭医です。調子が悪いな…と感じたらお気軽にご相談ください。

🍀RWCならソレ解決できます🍀