なぜ、手稲記念館は手稲区にないのか

札幌市内の郷土資料館を調べていると、ひとつ気になることがあります。
平岸郷土資料館は豊平区平岸に、屯田郷土資料館は北区屯田にと、多くの施設は名称と所在地の地名が一致しています。
ところが「手稲記念館」だけは、手稲区ではなく西区西町に建っているのです。
地下鉄東西線・宮の沢駅からほど近い手稲記念館の側にある標識を見ても、やはり「西区」と記されています。
この違和感の正体は、館内に足を踏み入れると、すぐに解けはじめます。
謎の答え:手稲記念館が「西区」にある理由
手稲町と記念館の開館経緯

手稲記念館のルーツは、かつて存在した手稲町が計画した「郷土館」にあります。
手稲町は当時、現在の札幌市手稲区の大部分と西区の一部を占めていた自治体でした。
明治5(1872)年、旧仙台藩・白石支藩の家臣団が現在の西区西町・宮の沢付近に入植しました。
手稲町はこの年を開基の年と定め、100周年記念事業として、地域の歩みを伝える郷土館の建設を構想していたのです。
ところが、施設が完成する前に手稲町は大きな転換期を迎えます。
昭和42(1967)年、手稲町が札幌市へ合併されることになったのです。
郷土館建設事業は合併条件の一つとして札幌市に引き継がれ、昭和44(1969)年、地区の集会所を兼ねた施設として手稲記念館が開館しました。
なぜ「手稲区」ではなく「西区」にあるのか

開館から数年後、札幌市が政令指定都市になると、旧手稲町は「西区」に組み込まれました。
当時の町名には「手稲東」や「手稲宮の沢」のように「手稲」の名が残っていたため、この地に手稲記念館があることに違和感を覚える人はいなかったはずです。
状況が変わったのは平成元(1989)年のことです。
西区から手稲区が分離・新設された際、西町や宮の沢地区など旧手稲町の一部エリアは手稲区ではなく西区に残留することになりました。
さらに町名変更で、住所から「手稲」の文字が消えてしまいました。
その結果、記念館の建つ場所は西区に取り残され、「西区にあるのに手稲記念館」という不思議な状態が生まれたのです。
後から引かれた行政の境界線によって、意図せず「手稲区の外」になってしまった手稲記念館。
しかし、この場所こそが旧仙台藩の人々が最初に切り拓いた、手稲開拓の原点なのです。
上手稲村と繰り返される「境界線」の歴史
西区に残る旧手稲町のエリアは、明治から昭和初期にかけて「上手稲村」と呼ばれていた地域とほぼ重なります。
実は明治末期、この上手稲村の有志から「手稲村から分村し、琴似村に併合してほしい」という請願が出されたことがありました。結果的にこの分村は実現しなかったものの、手稲区の分区によってこの地区は「手稲」から切り離されることになります。100年近くの時を経て分村が実現したような、不思議な巡り合わせを感じるエピソードです。
手稲記念館を訪ねて
前庭:二つの石碑が語る開拓の記憶

緑に囲まれた手稲記念館。
その前庭には、重厚な二基の石碑が左右に対峙するように佇んでいます。
開村を記念する石碑と開基100年を記念する石碑。
これらが向かい合って佇む姿からは、この地が紡いできた時間の流れが静かに伝わってきます。
上手稲開村記念碑

向かって右側に見えてくるのが「上手稲開村記念碑」です。
建立されたのは、明治43年(1910年)。
もともとは西町北20丁目の旧上手稲神社境内にありましたが、記念館の新設に伴って、昭和42年(1967年)にこの場所へ移築されました。
石碑としては珍しく、題字が「右から左への横書き」で刻まれているのが印象的です。
手稲開基百年記念碑

一方、左側に立っているのは、1971年(昭和46年)に建立された「手稲開基百年記念碑」です。
旧仙台藩の片倉家家臣団がこの地に入植した1872年(明治5年)を「手稲の開基」とし、その100周年を記念して建てられました。
太い支柱には、当時の北海道知事・町村金五の揮毫による白みかげ石がはめ込まれており、力強い印象を与えます。
地域の歴史を後世に伝えようとした、当時の人々が抱いた強い意志が伝わってくるようです。
展示室:手稲町の歩みを「一覧」できる場所
展示の構成と特徴

展示室は開拓前の手稲を紹介する内容から始まり、自然環境、開拓、産業・農業・教育などの行政、自治と経済、交通・文化・スポーツまで、テーマごとに分かりやすく構成されています。
土器や石器、動物の剥製、農機具や生活用具などの実物資料も充実していますが、この展示室でひときわ目を引くのは、解説パネルの豊富さ。
手稲町の教育や産業、財政といった自治行政に関する解説が充実しており、単なる「昔の道具の陳列」にとどまらない郷土資料館になっています。
その背景には、この記念館の成り立ちがあるように思えます。
もともと手稲町が開基100年を記念して構想したものが、合併によって札幌市に引き継がれて開館したという経緯があるからこそ、全体に「手稲町の集大成」とでも言うべき趣きがあるのかもしれません。


館内を見渡せば、土器や石器といった出土品、開拓時代の農具・生活用具、開拓功労者の顔写真から各種文書、過去の手稲を写した写真まで、興味深い展示がいたるところに散りばめられています。
そして、その展示のラストを締めくくるのは、札幌市と手稲町の合併を解説するパネルです。
有史以前から札幌市との合併に至るまで、手稲の歩みがひとつの線としてつながって見える点こそ、この展示室の最大の魅力と言えます。
気になった展示3選
バッタ塚

明治10年代、トノサマバッタが大量発生し、道内各地の農作物は壊滅的な被害を受けました。駆除したバッタや卵を埋めた跡が「バッタ塚」として手稲山口に残っています。
展示されているバッタ塚の土をみると、バッタや卵が分解された黒い層がはっきりと残っているのが分かります。
手稲鉱山の鉱石標本

昭和初期に本格稼働し、金・銀・銅を産出した手稲鉱山の鉱石です。かつては産金量で全国2位を記録したこともありました。
最盛期には7,000人近くが暮らす鉱山街が生まれ、手稲の発展を支えましたが、昭和40年代に閉山しました。
松本判官の掛軸

この地に入植した旧仙台藩片倉家家臣の三木勉は、子弟教育のため私塾「時習館」を開設しました。
その様子を視察し感銘を受けた開拓使判官・松本十郎が贈ったのが、この「古之兵皆農」で始まる『兵農一理之書』の掛軸です(写真左)。
まとめ:境界線の外に、「手稲」開拓の原点があった

手稲記念館の建つ西区西町・宮の沢の地は、今こそ町名に「手稲」の名を留めていませんが、明治5(1872)年に旧仙台藩白石支藩の家臣団が入植した「上手稲」、すなわち手稲開拓の原点にほかなりません。
平成元(1989)年の分区によって行政上は「手稲区の外」に置かれることになりましたが、この場所が手稲の開基の地であるという事実は変わりません。
それを今に伝えているのが、この記念館です。
手稲記念館を訪れた帰り道、ふと目に入る宮の沢や西町の街並みが、いつもと少し違って見えるかもしれません。
目の前に広がる住宅街のあちこちに、かつて命がけでこの地を切り拓いた人々の足跡が、確かに息づいているのを感じられるからです。





