札幌市白石区に息づく歴史と開拓の記憶

現在、地下鉄やJRが行き交い、住宅街や商業施設で賑わう札幌市白石区。
70年ほど前までは田畑が広がる農村地帯だったとは、想像しにくいかもしれません。
しかし、「白石」という地名そのものが、その歴史を静かに物語っています。
明治初期、仙台藩の一門であった片倉家白石支藩の家臣団が集団移住し、未開の地に村を築いたことがこの名の由来なのです。
「白石郷土館」は、こうした街の成り立ちを貴重な資料とともに伝える展示施設です。
本記事では館内の様子とともに、白石がたどった歩みをご紹介します。
白石郷土館の概要と魅力 ―駅直結で気軽に学べる展示室―

白石郷土館は、白石区複合庁舎の1階に位置しています。
行政施設の中、かつ、地下鉄白石駅に直結しているため、気軽に立ち寄れる利便性の高さが魅力の一つです。
館内はコンパクトな造りで、広さは大きめの会議室ほど。
収蔵資料は約70点で、ざっと見るだけなら数分から10分ほどで一巡できます。
もっとも、展示は明治4年の白石村誕生から白石区・厚別区の分区までの歴史を説明パネルでたどる構成で、かなり読みごたえがあります。
全てにじっくり目を通すには、相応の時間が必要でしょう。

地域の歩みを丁寧に展示する白石郷土館ですが、その開館は平成28年(2016年)と比較的最近のことです。
地域住民団体「白石区ふるさと会」による長年の尽力を経て構想が実を結び、開館に至った郷土資料館です。
白石郷土館を訪ねて

白石郷土館は、白石区複合庁舎の1階正面口を入ってすぐ右手にあります。
まず目を引くのは、入口に飾られた白石城の初代城主・片倉小十郎景綱の甲冑(複製)です。
その堂々たる佇まいに、思わず足を止める方も多いのではないでしょうか。
奥へ進むと、タッチパネルが備えた卓を囲むように、三方の壁面に説明パネルと収蔵品が整然と並んでいます。
説明パネルは「白石村のはじまり」「白石村の発展」「アイヌの人びと」の三部構成です。
このうち「アイヌの人びと」の展示は地域を限定せず、アイヌの人々の生活文化や札幌市内に残るアイヌ語地名を解説する内容となっています。
そこで今回は「白石村のはじまり」と「白石村の発展」の展示に焦点を当て、白石の歴史を紐解いていきます。
白石村のはじまり ―戊辰戦争の敗戦から始まった不屈の村づくり―
戊辰戦争の敗戦から「北地跋渉」へ

江戸から明治への激動期、戊辰戦争に敗れた仙台藩は大幅に減封され、重臣・片倉家が治めていた白石藩も多くの家臣を養う禄を失いました。
他藩の支配下となった故郷で帰農するか、士族の誇りを守り新天地へ渡るか。
苦悩の末に彼らが選んだのは、未開の北海道への移住「北地跋渉」でした。
明治4(1871)年秋、白石藩旧家臣とその家族600人余りが渡道。
館内に展示された「咸臨丸」「庚午丸」の模型は、命がけの渡道を今に伝えています。
小樽に到着した一行は、石狩での越冬を勧められたものの、降雪期の即時入植を決断。
同年11月、現在の国道12号線沿いに仮小屋を掛けました。これが「白石村」の始まりです。

渡道の際、咸臨丸は道南で座礁。幸い人命は失われなかったものの、大切な家財の多くが流失しました。館内には、このとき海水に浸かったと伝わる甲冑が展示されています。
村づくりと開拓を率いた二人の指導者

白石藩旧家臣たちは団結して原野を切り拓く傍ら、開拓の守り神を祀る白石神社や、子弟教育の場となる「善俗堂(後の白石小学校)」を整備しました。
白石郷土館では、初期の開拓を牽引した2人の人物を紹介しています。
一人は、北地跋渉を主導し開拓を指揮した佐藤孝郷です。
家老職の家柄に生まれた彼は、移住当時はわずか21歳。
若さゆえに旧臣からの反発に直面しながらも、開拓使の後ろ盾を得て村の基盤を造り上げました。
もう一人は、旧主君・片倉邦憲の嫡男である片倉景範です。
幌別(現在の登別市)の開拓を率いていた景範は、明治11(1878)年に札幌近郊三村(上手稲・白石・上白石)の戸長に就任。
自らも上白石に移り住み、数年にわたり旧臣たちをまとめ上げました。
手稲へ入植した片倉家家臣
小樽に到着した白石藩一行のうち240人余りは、白石村ではなく発寒(現在の札幌市西区宮の沢、後の上手稲村)に入植しました。
白石村は農耕に適さない場所が多く土地も狭かったこと、佐藤孝郷と上手稲側の中心人物だった三木勉の不和など、その理由についてはさまざまな説が伝えられています。
士族の誇りと「兵農一理之書」

「平時は開墾に勤しみ、有事は護衛に立つ」―そうした武士の矜持を胸に開拓に励む白石藩旧臣たちでしたが、明治5(1872)年の制度改定で「民籍」すなわち平民へ編入され、士族の身分を失うこととなります。
その落胆から村を離れる者も現れる中、意気消沈する人々に開拓判官・松本十郎から贈られたのが「古之兵皆農」で始まる「兵農一理之書」(兵農一理の書画)でした。
この書に励まされてか彼らは復籍運動を続け、明治18(1885)年、見事士族への復籍を果たしています。

「兵農一理之書」は、白石村と同じく白石藩の人々が入植した上手稲村へも贈られました。白石郷土館には、双方のレプリカが展示されています。
写真左は手稲記念館所蔵の実物です。
白石村の発展 ―農村から現代の都市へ―
農村として歩んだ戦前の白石村


明治35(1902)年時点で全世帯の約65%が農業を営んでいたことからも明らかなように、白石村は稲作や酪農を基幹産業とする農村として発展しました。
明治16(1883)年の稲作成功以降、暗渠排水の導入や「吉田堀」をはじめとする用水路の整備が進み、大正期には農業収入の8割を米が占めるまでに成長。
札幌近郊でも有数の米どころとなりました。
北海道の近代化を支えた「鈴木煉瓦製造場」

白石の発展を語る上で欠かせないのが、明治17(1884)年に創業した「鈴木煉瓦製造場」です。
ここで作られた煉瓦は、北海道庁本庁舎(赤れんが庁舎)をはじめとする道内の歴史的建造物や鉄道インフラに数多く使用され、工場が閉鎖される大正末期まで北海道の近代化を裏から支え続けました。

鈴木煉瓦製造場の刻印が残る煉瓦。
製造場は明治20年代前半には100名を超える職工を抱えるまでに拡大し、瓦や土管などの製造も手掛けていました。
札幌市との合併と急速な都市化

昭和25(1950)年、白石村は札幌市と合併しました。
昭和30年代に入ると、札幌都心部の人口増加と住宅不足を背景に、白石地区の田畑は急激に宅地や商業地へと姿を変えていきました。
その後、昭和47(1972)年の政令指定都市移行に伴い「白石区」が誕生。
更なる宅地化と人口増加を経て、平成元(1989)年には月寒川以東の地域が「厚別区」として分区独立し、現在の行政区画が形作られました。
対立と協調の歴史 ― 白石と厚別
同じ村内でありながら歴史的背景や地理的条件が異なった白石と厚別には、かつて分村論争のような葛藤も存在しました。
しかし札幌市との合併に際しては、厚別側の積極的な呼びかけにより村全体が固く団結し、円滑な全村合併が達成された経緯があります。
平成元年の分区独立は、双方が歩んできた歴史的な深みを反映しているとも言えます。
合同庁舎の一角で出会う、先人たちの歴史と誇り

白石郷土館の魅力は、アクセスの良さと、自分のペースで地域の歴史に触れられる気軽さにあります。
武士の誇りを胸に厳しい原野へと挑んだ先人たちの物語が、コンパクトな展示室の中に濃密に凝縮されています。
行政手続きや白石駅周辺のお出かけの際に、まずは入口に佇む甲冑や船の模型だけでもご覧になってみてください。
この街の歩みに思いを馳せる、ささやかなひとときが広がります。





