中島公園の白と群青の洋館―豊平館140年の歩みと見どころ

中島公園の豊かな緑の中に佇む、白と群青色の洋館―豊平館(ほうへいかん)は、明治時代に札幌初の洋式ホテルとして建てられた歴史的建造物です。
国の重要文化財にも指定されており、ホテル・公会堂・結婚式場と役割を変えながら、140年以上にわたって市民に親しまれてきました。
本記事では、豊平館の歴史と見どころをご紹介します。
豊平館の沿革
明治時代:洋風ホテルとして創建

豊平館は1880(明治13)年、開拓使による洋造旅館(ホテル)として、現在の中央区北1条西1丁目(札幌市民ホール付近)に建てられました。
設計は、札幌市時計台なども手掛けた開拓使の建築家・安達喜幸が担当。米国風様式を基調としながら日本の伝統技術・意匠を取り入れた木造2階建て地下1階の建物でした。
翌年には明治天皇の北海道行幸の際の行在所となり、天皇はここに3泊4日滞在されるなど、華々しいスタートを切りました。
開拓史の廃止後、豊平館の所管は札幌県・宮内省・御料局・帝室林野管理局と目まぐるしく変わります。
その間、建物は民間へ無償で貸し付けられてホテル兼西洋料理店として経営され、1911(明治44)年には皇太子(後の大正天皇)の御泊所にもなっています。
また明治30年代から各種集会・大会の場としても使われるようになり、公会堂としての機能も担うようになりました。
大正時代から昭和初期:公会堂として

集会や講演会、音楽会の場として市民に親しまれるようになった豊平館ですが、大正時代になり札幌の都市化が進むと、より収容能力の高い公会堂を求める声が高まりました。
1922(大正11)年、皇太子(後の昭和天皇)が行啓の際に泊まられたことを機に豊平館が宮内省から札幌市へ下賜されるとその動きが加速し、1927(昭和2)年には豊平館の北側に札幌市公会堂が完成しました。
昭和初期の札幌を描いた鳥瞰図では、「三度の光栄(三代にわたる天皇の行幸啓)に浴した由緒ある建物」「市民の最高社交機関」などの解説が添えられており、当時の市民の豊平館に対する認識が伝わってきます。
昭和(戦中以後)から平成:結婚式場として

1943(昭和18)年、豊平館は日本陸軍の占有となり営業を中止。
戦後は進駐軍に接収され米軍宿舎となり、更に三越の代替店舗として使われるなど苦難の時期を経て、1947(昭和22)年に市へ返還されました。
1958(昭和33)年には札幌市公会堂の改築を機に中島公園の現在地に移築され、翌年からは市営の結婚式場として再出発。昭和40年代前半には年間1,000組以上の挙式を数えるほどの人気を博しました。
1964(昭和39)年に国の重要文化財に指定された豊平館は、昭和・平成と2度にわたる大規模修復工事を経てほぼ当初の姿に復原されました。
現在は展示施設として公開されているほか、一部の部屋が一般に貸し出されています。
豊平館を訪ねて
ロケーションと外観:欧米の様式と和の意匠が調和する気品ある洋館

豊平館が位置するのは、中島公園の菖蒲池の北側。
前庭に池が設けられていること、正面が北向きであることの2点は当初から変わらず、移築先の選定において、往時の周辺環境をできる限り再現しようとした意図が感じられます。
外観でまず目を惹くのが、その鮮やかな色彩です。白い外壁にウルトラマリンブルーの窓枠とバルコニーが映える外観は、一度見たら忘れられない印象を残します。

建築様式はアメリカ風をベースとしつつ、正面バルコニーの柱はギリシャ建築のコリント式を模したもの、大屋根中央下部には日本の寺社建築に見られる懸魚が配されています。
欧・米・和の要素が調和した気品ある佇まいは、開拓使の洋風建築の代表作にふさわしい風格を備えています。

外壁は時計台や清華亭と同様の下見板張り。
建材には豊平川上流産の木材や硬石山(現・南区)産の札幌硬石など、地元産の素材が活用されています。

館内へは裏手の付属棟から入場します。バリアフリー化と室内復原のために設けられたものですが、明治期も同じ場所に付属棟があったことから、かつての姿を再現したと考えることもできそうです。
館内:創建当時の姿に復原

平成の修復工事を経て、現在の館内はホテルとして建てられた当初の姿へと忠実に復原されています。
その構造は1階・2階共通で、中央のロビー・ホールを境界として、東側には客室、西側には広間や会食所を配置する構成となっています。
1階ロビー

付属棟から渡り廊下を渡って館内に入ると、最初に目を惹くのが天井のシャンデリアと天井中心飾りです。
赤い絨毯が敷かれた二つの階段と相まって、明治初期の洋風建築が醸し出す雰囲気を存分に堪能できます。

1階ロビーの天井にある四角い開口部は、昭和の修復工事で復原された荷揚げ口です。
同様の構造は新琴似屯田兵中隊本部にも見られます。
下の広間と会食所


1階西側には前室を挟んで、下の広間と会食所の2室が並んでいます。
明治期にはビリヤード室として使われていたという下の広間は現在も貸室として利用可能。
会食所は当初の機能を引き継ぎ、喫茶室として活用されています。

下の広間の暖炉は昭和の修復工事で開館当初の姿に復原されたもの。暖炉の火床と袴石は札幌硬石。大理石風に見える焚口の周囲は、実は高度な漆喰塗りの技法によるものです(天板のみ大理石)。
1階客室
1階東側には帳場と、中廊下の両側に居室と寝間で構成された4室の客室が並びます。

豊平館の見どころのひとつが、各部屋に設けられた天井中心飾りです。
17基(うち2基は後年の復原)の意匠はすべて異なり、「波に千鳥」「紅葉」など日本の伝統文様が巧みな左官技術で描かれています。
なお、これらは客室の名称の由来にもなっています。

豊平館と同時期に建てられた清華亭や旧永山武四郎邸にも同様の天井中心飾りが見られます。
特に旧永山邸では建築年代の推定根拠の一つともなっています(写真は旧永山邸の天井中心飾り)。

1階・百合の展示映像「豊平館と多様な文化」。
戦前の豊平館は講演会やコンサートの会場、音楽団体の練習場などとして、市民の文化活動の拠点となっていました。

1階・芙蓉には結婚式場時代の記念帳を展示。
記された新郎新婦の膨大な署名は、この建物が市民の人生の節目に寄り添い、長く愛されてきた歳月の重みを静かに伝えています。
2階ホール

2階ホールの一角には上階へ続く階段がありますが、これは屋根裏へと通じているそうです。
来館者からの関心が高いのか、階段の前にはその詳細を記した解説パネルが設置されていました。
2階広間

館内最大の面積を誇る2階西側の広間は、豪華なシャンデリアや鏡付きの暖炉、三条実美の筆による扁額など、多くの見どころが揃うメインルームです。
この部屋の床は当初、多数の鉄ボルトで締め付けた堅牢な構造となっていました。これは舞踏会の開催を想定したためであると伝えられています。

各部屋のシャンデリアも見逃せないポイント。
製造年代は明治から昭和初期にわたり、なかでも2階広間のものは創建当初から現存する館内屈指の逸品です。
2階客室
2階には計6室の客室があり、そのうち5室が公開されています。
そのうち中廊下を挟んで並ぶ4室は、「梅」から「椿」まで四季の花々が天井中心飾りのモチーフとなっており、季節の移ろいを感じさせる配置が興味深いです。
梅

明治・大正・昭和の3代の天皇が御座所とされた部屋で、木部の塗装や壁の構造などが明治期の姿に復原されています。
また、建築当時の資料をもとに再現された家具が置かれ、洋風ホテルとして建てられた当時の雰囲気を体感できます。

この部屋にはタブレット端末を使った展示があり、室内の構造・設備の解説や、3代の天皇をはじめ豊平館に宿泊した人々を紹介しています。

寝間には寝台や洗面台などが備えられています。
なお、当時の豊平館の客室には浴室や便所がなく、それらは裏手の付属棟に設置されていました。
紫
三代の天皇が行幸啓の際にお使いになった調度品や、豊平館の構造・建築に関する展示が行われています。

菊の御紋が印象的なこの椅子は、1911(明治44)年の皇太子(後の大正天皇)行啓の際に用意されたものです。
戦中・戦後の軍による占有や接収という激動の時代を経て、今日まで残された貴重な品です。

豊平館の外観を彩るウルトラマリンブルー。その原料となるラピスラズリの原石と塗装工程が紹介されています。
この顔料は、フェルメールの傑作「真珠の耳飾りの少女」に使用されたことでも有名です。
椿

結婚式場時代の様子を再現した一室で、他の客室とは異なり寝間は復原されておらず、当時の雰囲気を残しています。
結婚式場としての豊平館は予約が取りにくいほどの人気を誇り、民業圧迫を問題視した市議会により、1日の挙式数が制限されるほどでした。

市営ゆえに宗教色を排した、豊平館の式次第。
新郎新婦による記念帳への署名や市長(代理の館長)からの祝辞が式に組み込まれた、市営式場ならではの形式でした。
今も生き続ける明治の洋館

明治・大正・昭和と三代の天皇のご滞在を賜った由緒ある建物でありながら、市民の文化活動の拠点として、あるいは多くのカップルの門出を祝う結婚式場として―豊平館は時代ごとにその役割を変えながら、常に札幌の歴史と共に歩んできました。
中島公園の緑に映える白と群青の洋館は、140年以上を経た今も変わらぬ気品と風格を漂わせています。
歴史の息吹を肌で感じるひとときを過ごしに、ぜひ豊平館を訪れてみてください。
アクセスと開館時間
こちらもおすすめ

私たちは人事業界の家庭医です。お気軽にご相談ください。


🍀無料カウンセリングを受ける🍀
悩んだらまずはお気軽にお問い合わせください。








