神社仏閣

札幌護国神社(札幌市中央区)

2022年12月1日

中島公園に隣接する歴史の証人、札幌護国神社の由緒と魅力に触れる

札幌護国神社の社号碑

札幌護国神社は中島公園の南側に位置する神社です。

西南戦争で亡くなった屯田兵の霊を慰めるために建てられた招魂碑が起源の神社で、明治以降の戦没者や殉職した警察官・消防官の方々を祀っています。

さらに、境内社の多賀神社は縁結びや延命長寿にご利益があると言われており、多くの参拝客で賑わいます。

この記事では、札幌護国神社の由緒や魅力について詳しくご紹介します。

札幌護国神社のご由緒

創建から現在地に移転するまで

明治12年の屯田兵招魂之碑
明治12年、建立当時の招魂碑
(北海道大学付属図書館蔵)

札幌護国神社の歴史は、明治12(1879)年に遡ります。

この年、西南戦争で亡くなった屯田兵の霊を慰めるために偕楽園(北区北6条西7丁目)に招魂碑が建てられ、毎年8月に慰霊祭が行われるようになりました。

やがて慰霊祭では相撲や踊りなどの催し物や餅まきが行われるようになりました。

明治中期には、札幌神社(現在の北海道神宮)例祭と並ぶ札幌市民の一大イベントだったと伝わっています。

明治末期に中島公園に移転した頃の招魂碑
明治末期、中島公園に移転した頃の様子
(北海道大学付属図書館蔵)

招魂碑は明治40(1907)年に中島遊園地(現在の中島公園)へ、さらに昭和8(1933)年には現在地へと移転しました。

現在地に移転した時に社殿が建てられ、札幌招魂社と名付けられました。

護国神社として

昭和11年頃の札幌招魂社
昭和11年頃の札幌招魂社
(北海道大学付属図書館蔵)

札幌招魂社は昭和14(1939)年に内務省指定の護国神社となりました。

しかし、太平洋戦争の敗戦後、全国の護国神社は軍国主義を助長するものとみなされ、苦難の時期を迎えました。

札幌護国神社も例外ではなく、札幌彰徳神社と改名し、戦没者だけでなく殉職した警察官・消防官も合祀しました。

また、滋賀県の多賀大社のご分霊を迎えて、境内社の多賀神社を建立したのもこの時期のことです。

札幌護国神社の参道

これらの努力により札幌護国神社は苦境から脱し、昭和34(1959)年には再び札幌護国神社と呼ばれるようになり、現在に至ります。

札幌護国神社のご祭神

札幌護国神社の神門

札幌護国神社のご祭神は、西南戦争から太平洋戦争までの戦役で亡くなった5支庁(石狩・空知・胆振・日高・後志)および樺太出身の方々と、殉職した警察官・消防官の方々、合わせて25,550柱です。

札幌護国神社の境内

多賀神社

札幌護国神社の境内社の多賀神社

札幌護国神社の境内社である多賀神社は、滋賀県の多賀大社のご分霊を受け、昭和24(1949)年に建立されました。

ご祭神は、国生みの神話で知られる伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)です。

また、昭和46(1971)年には、札幌市の山鼻神社のご祭神も合祀されています。

札幌護国神社の境内社である多賀神社の鳥居

伊邪那岐大神と伊邪那美大神は延命長寿や縁結びの神様として知られており、多賀神社では縁結びのお守りを授かることができます。

花手水

札幌護国神社の境内社である多賀神社の花手水
境内社・多賀神社の美しい花手水
風鈴が飾られた夏の札幌護国神社の手水舎
夏の手水舎は花手水と風鈴で涼やかな雰囲気

近年、多くの寺社で見られるようになった花手水。

札幌護国神社の花手水は、特に色鮮やかで目を引きます。

夏には手水舎に風鈴がたくさん下げられており、風に揺れる音色が涼やかな雰囲気を作り出していました。

彰徳苑

(写真をクリックすると拡大します)

本殿の北側に広がる彰徳苑には、西南戦争から太平洋戦争に至るまでの戦役の慰霊碑を中心に、20基弱もの石碑が建立されています。

砲兵第七連隊哨舎

彰徳苑の入口のすぐそばに、見慣れない形の建造物があります。

これは、昭和初期に旭川の砲兵第七連隊に設けられた哨舎を、昭和40年代に現在地へ移築したものです。

哨舎とは、警戒や見張りをする兵が詰める小屋のことです。

しかし、この哨舎が使われていた当時は、悪天候の時にしか中に入ることを許されていなかったそうです。

厳しい軍隊生活の一面を示す遺構です。

札幌護国神社に残る砲兵第七連隊哨舎

屯田兵招魂之碑

札幌護国神社の屯田兵招魂之碑

屯田兵招魂之碑は、札幌護国神社の起源となった石碑です。

明治10(1877)年の西南戦争に従軍した屯田兵戦病没者の霊を慰めるため、明治12(1879)年に建立されました。

一説には、札幌市内に現存する中では最古の石碑とも言われています。

山鼻神社碑

札幌護国神社の山鼻神社関連の石碑群

境内社の多賀神社に合祀された山鼻神社に関連する石碑群です。

山鼻神社は山鼻屯田兵村の氏神として、明治23(1890)年に現在の札幌市中央図書館の近くに建立された神社です。

昭和46(1971)年に多賀神社に合祀されることになり、山鼻神社にあった祭神三柱の石碑も彰徳苑に移されました。

「山鼻神社碑」と書かれた一番大きな石碑は、その時に建てられたものです。

また、平成2(1990)年に中央区南30条西11丁目で山鼻神社と刻まれた石碑が発見されており、こちらも彰徳苑へ移設されています。

この石碑の由来は不明ですが、側面に「明治9年2月」とあるので、山鼻に屯田兵が入植する前に作られたことがわかります(屯田兵は同年5月に入植)。

明治23(1890)年に建立された山鼻神社の前身だったのか、それとも同じ名前の神社が2つあったのかはわかりませんが、どちらも入植者が開拓の守り神としてお祀りしたものでしょう。

社殿の形を模した札幌護国神社の山鼻神社碑

札幌護国神社の多彩な魅力に触れてみよう

札幌護国神社の境内

札幌護国神社は、明治以降の戦争で亡くなった人々や殉職した警察官・消防官の方々をお祀りしている神社です。

また、境内社の多賀神社は、恋愛や長寿の神様として人気があります。

境内には、鴨々川が流れており、花手水も美しく、札幌市内でも風情のある神社の一つです。

秋の札幌護国神社の境内を流れる鴨々川

札幌市内中心部から地下鉄で数分のところにあり、駅からも徒歩3分ほどとアクセスも良好ですので、ぜひ一度訪れてはいかがでしょうか。

アクセスと拝観時間

所在地:札幌市中央区南15条西5丁目1-1
アクセス:札幌市営地下鉄南北線幌平橋駅から徒歩3分、札幌市電行啓通停留所から徒歩3分
拝観時間:7:00 ~ 16:00(社務所は9:00 ~ 16:00)
公式HP:https://sapporo-gokoku.jp/

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参考文献
「新札幌市史 第5巻 通史5(下)」(札幌市教育委員会 編/2005年)

「さっぽろ文庫39 札幌の寺社」(札幌市教育委員会 編/1986年)
「さっぽろ文庫45 札幌の碑」(札幌市教育委員会 編/1988年)
「さっぽろ文庫33 屯田兵」(札幌市教育委員会 編/1985年)

  • この記事を書いた人

福島智美

札幌生まれ、札幌育ちの文学修士。学術からビジネス実務の道へ転身し、山口と共に起業する。学芸員資格者でもあり、北海道博物館での実習経験もある。本サイトでは史跡や寺社などを担当。趣味は和装とフィギュアスケート観戦。

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