史跡 琴似屯田兵村兵屋跡
北海道遺産にも選定された貴重な史跡
琴似屯田兵村兵屋跡は今から150年前に北海道開拓事業に従事した琴似屯田兵の清野専次郎とその家族が実際に暮らしていた兵屋を史跡として復元したものであり、全208戸あった兵屋のうち現存する2棟のひとつである。
清野専次郎は宮城県亘理郡(旧仙台藩亘理郡)出身の士族で、彼の兵屋は琴似屯田兵村の133号棟となる。現存する2棟のもうひとつは琴似神社の境内にある旧佐藤邸だが老朽化が激しく、現在内覧可能なのは旧清野邸のみとなった。
旧清野邸は開拓時代後も清野家の住宅として使用されていたが1970年に保存修理のため解体され2年後に現在地に移築復元された。その後1982年に国の史跡に、また2004年には北海道遺産にも選定されている。
これは清野邸に掲げられていた表札であり、現在は近隣の琴似屯田歴史館資料室で展示されている。屯田兵は半農半士だったが「士族 清野専次郎」という表札名に武士としての清野家のプライドをうかがい知ることができる。
北海道入植の第一陣は琴似屯田兵
琴似屯田兵は正式名称を陸軍屯田兵 歩兵第1大隊第1中隊といい、北海道開拓事業のため明治8年(1875年)から24年間にわたって段階的に投入された屯田兵の第一陣として琴似の地に入植した人達である。
明治8年5月には屯田兵196名とその家族965名によって琴似村が開村し、軍隊の宿営地のように整然とならんだ208戸の兵屋で暮らしながら過酷な開墾作業に着手した。つまりこの小さな家々こそが北海道開拓の原点といっても過言ではない。
琴似村の開村と同時に琴似神社も創建され厳しい開拓事業に従事する村民達の心の拠り所となった。今でも屯田兵の入植が完了した5月7日を記念して琴似神社の春季例大祭が行われており初夏の風物詩となっている。
現存する琴似屯田兵村兵屋のもう一棟は琴似神社の境内裏手にある旧佐藤邸である。老朽化が激しく残念ながら現在は室内を見学することはできない。なおこちらは開村当時に建てられていた場所にそのまま残存している。
琴似に次いで開村したのが山鼻屯田兵(第2中隊)による山鼻村である。以後、新琴似村(第3中隊)、篠路村(第4中隊)と続き、琴似村の事例を参考に兵屋の配置や兵村の運営などを改善していったといわれている。
琴似屯田兵の暮らしぶりを知る
琴似屯田兵村兵屋は内見可能
営業時間中であれば兵屋は誰でも自由に見学可能であり、備え付けのスリッパに履き替えると室内の隅々まで内見することもできる。言うまでもなく室内は禁煙で壁面の落書きやゴミのポイ捨てなどはもってのほか。道民には聖地に等しいので大人の節度をもって見学したい。
当日は晴天のためか室内は思ったより明るい。土間から居間に続くスペースは天井が高くてとても開放感がある。若い頃にバイク乗りだった筆者は兵屋を現代風にリフォームして土間をガレージにしたら意外に需要があるのではないかなどと妄想してしまった・・・。
琴似神社の分霊が宿っていたと思しき神棚。居間の壁面中央に備え付けられ清野一家はこの下で日々の安全を祈念していたのだろう。開墾作業や軍事訓練に加えてヒグマの来襲など開拓時代の生活は危険と隣り合わせだった。
屯田兵はハードなダブルワーカー
屯田兵の一日は毎朝4時に起床して6時には開墾作業を開始し、正午に食事を兼ねて1時間の休憩、そして18時まで働くのが一般的だった。さらに屯田兵は有事の際は北海道防衛の任にあたる軍隊でもあったため日常的に軍事訓練も課されていた。
日々のルーティンには農具や兵屋の手入れも含まれており、時々上官が抜き打ちの立入検査を行っていたという記録も残っていることから、屯田兵のみならずその家族にとってもなかなか気の休まる時の無い日々だったのではないかと推察する。
奥の間には銃が立てかけられるように細工の施した棚が備え付けてあった。普段はこの棚に軍装一式を収納しておき有事の際にはすぐに出動できるよう日頃の手入れを欠かさなかった。
兵屋は当時最先端の戸建住宅
当初、屯田兵村の兵屋の建築にあたり新政府は江戸の長屋風の集合住宅を想定していた。しかし開拓史顧問だったホーレス・ケプロンの提言により一戸あたり敷地面積を150坪(495㎡)、建坪を17坪半(58㎡)とした戸建住宅を建築することになった。
高気密で快適な北方住宅に慣れた現代の我々には「こんな簡素な小屋でよく北海道の厳しい冬を過ごせたものだ。」と感心しきりだが、それでも民間の開拓民の掘っ立て小屋のような粗末な住まいに比べるとかなり上等な住居だったらしい。
大通公園のホーレス・ケプロン像。「少年よ大志を抱け」で知られる札幌農学校のクラーク博士や北海道の殖産に尽力したエドウィン・ダンなど、北米からやってきた指導者達によって札幌市の基盤が整備されていった。
冬の生活はかなり厳しかった
兵屋の天井はまるで吹き抜けのように高い。空調設備など無かった開拓時代の住宅ではかまどや囲炉裏の煙を逃がすために高い天井が必要だったのではないかと推察する。屋根の素材は薄板を何層かに張り合わせた簡素な造りで良くも悪くも換気はよさそうだ。
連日の気温が氷点下を下回る冬の北海道において、玄関フードや二重サッシ窓などを備えた高気密住宅は当たり前となっている。しかし開拓時代には当然そのような設備はなく、凍死や凍傷に見舞われるリスクの高い厳しい冬を過ごしていたことは想像に難くない。
当時の暖房器具といえば居間に据え付けられた小さな囲炉裏ひとつだったので冬は想像を絶する寒さだったはず。ストーブガードなどもない時代だから小さな子どものいる世帯は常に我が子から目を離せなかっただろう。
北海道開拓はこの小屋からはじまった
史跡、琴似屯田兵村兵屋跡は西区の中心街である琴似地区の一角にひっそりと建っている。毎日大勢の人々やクルマが行き交う喧騒の中、150年前に実際にこの地で営まれていた先人達の開拓ストーリーを静かに後世に伝え続けている。
かつて北海道全域に40か所近い屯田兵村が開村し、延べ4万人が北海道開拓に従事したと言われているが、当時のままの姿で復元され、現在でも気軽に内見できる兵屋は現在この一棟となってしまった。
しかし今や人口200万人に到達せんとする札幌市をはじめ北海道開拓の歴史はこの粗末でちっぽけな小屋から始まったのだ。もしご来札の折にはぜひこの史跡をたずねて先人達のフロンティアスピリットを感じてみて欲しい。