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神社仏閣

発寒神社(札幌市西区)

2024年5月24日

札幌最古級の神社 発寒神社

発寒神社の鳥居と社殿

JR発寒中央駅から徒歩数分、地区センターや小学校、食品スーパーなどが並ぶ一角に佇む発寒神社。

江戸時代末期から開拓が始まった発寒地区を見守ってきたこの神社は、札幌市内で2番目に古い神社であるといわれています。

今回は、実際に参拝した時の様子を織り交ぜつつ、発寒神社の歴史、魅力、そして周辺のおすすめ観光スポットをご紹介します。

発寒神社のご由緒

発寒神社社殿の社号額

開拓以前の発寒

発寒神社の鎮座する発寒の地には、先史時代から人々の暮らしがありました。

地区には縄文時代から擦文文化の遺物が、発寒神社の境内からはアイヌ文化期の墓跡が発見されています。

発寒という地名はアイヌ語で「ムクドリのいる川」を意味する「ハチャム・ペッ」に由来するとされており、江戸時代の文献にも「ハッシャブ」や「ハッシャム」などの表記で登場しています。

発寒の開拓と稲荷社の創建

発寒神社の西参道
境内西側に面した通りは、「稲荷開道」や「稲荷通」と呼ばれ、発寒地区の発展の中心となった

発寒の開拓が始まったのは、安政4(1857)年のことです。

この年、北方防衛と開拓を目的とした江戸幕府の在住制度に基づき、幕臣が農民を連れて発寒に移住しました。

その入植者の中心となった山岡精次郎は、開拓の守護として京都の伏見稲荷大社のご分霊を祀ります。

稲荷社と呼ばれたこの祠が、発寒神社の起源とされています。

在住武士たちは慶応2(1866)年頃までに発寒の地を去りましたが、その後も細々と開拓は続けられました。

稲荷社から発寒神社へ

発寒神社のタッチパネル式境内案内板
タッチパネルの境内案内版

明治9(1876)年になると琴似屯田兵村の分村として発寒にも兵村が開村し、32名の屯田兵とその家族が入植、開墾が本格化しました。

これらの人々は、在住武士たちが残した稲荷社を受け継ぎ、厳しい開拓生活の心の支えとしました。

稲荷社は明治31(1898)年に伊勢神宮から豊受大神のご分霊を受け、翌32(1899)年には「稲荷神社」として公認神社となりました(無格社)。

明治36(1903)年に現在の社名「発寒神社」となった後、現在に至るまで、地区の鎮守社として多くの信仰を集めています。

発寒神社のご祭神

発寒神社の社殿

発寒神社には、豊受大神(とようけのおおかみ)と倉稲御魂大神(うがのみたまのおおかみ)の2柱の神様がお祀りされています。

倉稲御魂大神

伏見稲荷大社からご分霊を受けてお祀りされた穀物の神様で、「お稲荷様」として広く信仰されています。

五穀豊穣や商売繁盛のご利益があるとされています。

豊受大神

伊勢神宮からご分霊を受けてお祀りされた、食物や穀物の神様です。

農業をはじめとする各種産業発展の神様として信仰されています。

発寒神社の境内

狛犬

発寒神社の狛犬

発寒神社には計3対の狛犬が置かれています。

その中で最も古いのは、社殿前の一対です。

昭和3(1928)年に奉納されたこの狛犬の製作者は、相馬神社(豊平区)の鳥居にもその名を残している、石工の山崎岩吉氏です。

札幌市内には、相馬神社や彌彦神社(中央区)など、氏が手掛けたと思われる狛犬が複数残されています。

相馬神社と弥彦神社の狛犬
相馬神社(写真左)と彌彦神社(写真右)の狛犬、姿形や胴体の模様など発寒神社の狛犬との共通点がみられる

社号碑

発寒神社の社号標
発寒神社の社号標、表面(写真左)と裏面(写真右)

南側の参道に建つ、大正14(1925)年建立の札幌軟石製の社号標。

裏面には建立年月日や建立者の他に「恩給紀年」と刻まれています。

発寒神社の境内には、屯田兵に軍人恩給が支給されるようになったことを記念する「恩給記念碑」があったという複数の資料が存在します。

建立年月日が一致することなどから、この社号標がその記念碑であると思われます。

環状列石(環状石垣)

発寒神社の環状列石(復元)

社殿の向かって右側に、輪を描くように置かれた石と、「史蹟 環状石垣之跡」と刻まれた石碑があります。

これは、昭和7(1932)年に現在の発寒神社の境内で行われた発掘調査で発見された、環状列石(ストーンサークル)を再現したものです。

環状列石はその後の宅地開発で消滅してしまいましたが、発掘当時は長さ50cm~1m、最長で2mの石柱が約10本ほど半月形に並んでいたといいます。

半分はアイヌ文化期のものと推定される墳墓や、陸軍の演習で作られた塹壕で失われていたものの、当初は円形だったと思われ、その構造から、縄文時代後期の墓ではないかと推測されています。

発寒神社の石碑群

発寒神社には「史蹟 環状石垣之跡」の他にも、地域の歴史を物語る石碑がいくつか建てられています。

発寒移住記念碑

発寒移住記念碑

安政4(1857)年に幕府の在住制度により発寒に集団入植し、その開拓の礎となった武士たちを偲び、昭和34(1959)年に建てられた石碑です。

台座を含めた高さ3.5m超の堂々とした姿は、彼らの功績を物語るかのようです。

発寒屯田兵移住百年記念碑

発寒屯田兵移住百年記念碑

発寒移住記念碑の隣に建つ一回り小さな石碑が、発寒屯田兵移住百年記念碑です。

これは、琴似屯田兵村の分村である発寒兵村に入植した屯田兵のゆかりの人々が、移住100年を記念して昭和50(1975)年に建立したものです。

馬頭碑群

発寒神社の馬頭碑

境内の東側に、数多くの馬頭観音碑や馬頭大神碑が集められた一角があります。

大きさも形も様々な石碑の数は10個を超え、そのどれもが農耕や運搬などに欠かせなかった牛や馬の霊を慰めたり無病息災を祈って建てられたものです。

地域内に建てられていた牛馬の慰霊碑を、宅地化に伴い発寒神社の境内に集めたものなのでしょうか、一部を除きいずれの石碑も昭和20年代までに建立去れたものです。

なお、発寒神社では毎年5月15日の春季大祭の際に、馬頭祭が行われています。

発寒神社で郷土の歴史に触れる

発寒神社の参道と社殿

発寒神社は、江戸時代末期から開拓が始まった地区の歩みを見守り続けてきた、札幌市内でも長い歴史をもつ神社です。

境内には、縄文時代のものと思われる環状列石の復元や発寒の歴史を伝える石碑群など、歴史を感じさせる興味深い見どころが数多く存在します。

JR発寒中央駅から徒歩数分とアクセスも良いので、札幌市内にお住まいの方だけでなく、観光客の方にもおすすめのスポットです。

ぜひ一度、参拝してみてはいかがでしょうか。

アクセス

アクセス;JR「発寒中央」駅より徒歩3分、札幌市営地下鉄東西線「発寒南」駅より徒歩15分
社務所取扱時間;9:00 ~ 17:00
公式HP;発寒神社公式サイト

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参考文献
「さっぽろ文庫39 札幌の寺社」(札幌市教育委員会 編/1986年)

「新札幌市史 第1巻 通史1」(札幌市教育委員会 編/1989年)
「新札幌市史 第3巻 通史3」(札幌市教育委員会 編/1994年)
「新西区のおいたち 区政施行20周年記念」(札幌市西区役所 著/1993年)
「琴似町史(復刻版)」(札幌市史編集委員会 編/1995年)
「広報さっぽろ 西区版」(2007年11月号)
「ほっかいどうの狛犬」(丸浦正弘 著/2007年)

  • この記事を書いた人

福島智美

札幌生まれ、札幌育ちの文学修士。学術からビジネス実務の道へ転身し、山口と共に起業する。学芸員資格者でもあり、北海道博物館での実習経験もある。本サイトでは史跡や寺社などを担当。趣味は和装とフィギュアスケート観戦。

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