旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)と簾舞地区
札幌市で建築された最古の住宅
札幌市南区の簾舞(みすまい)地区にある旧黒岩家住宅(簾舞郷土資料館 旧簾舞通行屋)は、札幌市内で建築された木造住宅の中でも最古のものとなります。
通行屋の遺構が現在も残っていること、洋風の小屋組みが使われるなど建築史的にも価値があることから、札幌市の有形文化財に指定されているほか、札幌市時計台や豊平館などと共に開拓使時代の洋風建築の一つとして北海道遺産にも選ばれています。
建物の内部は一般公開されており、また明治時代中期に増築された建物の右半分(写真の奥にある部屋)は、簾舞地区の郷土資料館として活用されています。
簾舞の地名の由来
「簾舞=みすまい」という珍しい地名の由来は、アイヌ語の「ニセイオマップ(峡谷にある川)」といわれています。
「ニセイオマップ」が後になまって「ミソマップ」となり、旧黒岩家住宅が作られた頃に「簾舞」の漢字があてられるようになりました。
この地区では江戸時代以前の遺跡や遺物が見つかったことがなく、明治時代に開拓が始まるまで人が定住したことのない全く未開の地だったと考えられています。
簾舞地区の沿革
未開の地だった簾舞の開拓は、明治5(1872)年に簾舞通行屋の屋守として黒岩清五郎とその家族の計3名が入植したことに始まります。
当時の本願寺道路沿いは石山の石切小屋と定山渓の休泊所以外に家もなく、清五郎一家は10年余りもの間、たった一戸で屋守の傍ら簾舞の開拓を進めました。
明治10年代半ばから他の入植者が現れますが、簾舞の開拓が本格化するのは、明治20年代に札幌農学校(現在の北海道大学)の第四農場がこの地に開設され、小作人による開墾が始まってからのことです。
この頃には本願寺道路も改修され、札幌~定山渓のほぼ中間に位置する簾舞は、交通の要衝として様々な公共施設がおかれ、本願寺道路沿線の中心的集落として発展していきました。
現在の簾舞は宅地化の進行で農地が少なくなっていますが、かつては都市近郊の農業地域として、米や豆類、札幌麦酒株式会社(現在のサッポロビール)で作られるビールの原料となるホップなどが栽培されていました。
また、果樹栽培も盛んで、特にイチゴは戦後に「簾舞イチゴ」として広く知られるようになりました。簾舞とその周辺には現在も、果物狩りを楽しめる果樹園がいくつか存在しています。
かつての旧黒岩家住宅の役割と特徴
黒岩家の入植から郷土資料館となるまで
無人の簾舞地区にたった3人で入植する
旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)は明治5(1872)年、前年に作られた「本願寺道路」の通行屋として北海道開拓使によって建てられました。
開拓使は軍川(北海道七飯町)で通行屋守を務めていた福岡県出身の黒岩清五郎を簾舞通行屋の家守に任命、清五郎は家族3人で全くの無人だった簾舞に移住しました。
本願寺道路とは、東本願寺が中心となって作られた、伊達市から中山峠を経由して札幌市豊平区に至る道路です。
またの名を「有珠新道」とも呼ばれ、現在の国道230号線の基礎となりました。
通行屋とは旅行者の休憩・宿泊施設で、早馬の乗継場所でもありました。
通行屋は主要な道路に沿って設置されており、札幌市内では簾舞の他、三樽別(さんたるべつ、現在の手稲区)・厚別・篠路・定山渓などに置かれていました(※写真はイメージです)。
簾舞通行屋の廃止と札幌市への寄贈
当初は相応の往来があった本願寺道路ですが、明治6(1873)年に札幌から千歳を経て室蘭に至る「札幌本道」ができると通行量が減っていき、簾舞通行屋は明治17(1884)年に廃止されました。
その後、本願寺道路は明治19(1886)年の新道整備により復活、黒岩家は建物を新道沿いの現在地に移築しました。またこの頃、新棟(現在の正面から右半分)が増築されます。
建物は移築後も黒岩家の住宅兼宿屋(大正7年の定山渓鉄道開業により宿屋は廃業)として使用されたほか、私設教育所(簾舞小学校の前身)や陸軍の休憩所、町役場の出張所など様々な役割を果たしていたようです。
移住時から代々この建物に居住してきた黒岩家ですが、昭和56(1981)年に住宅を新築したことに伴い、住宅と土地を札幌市に寄贈しました。
その後、建物は札幌市の文化財に指定され、解体調査・復元修理を経て、昭和61(1986)年より建物内部と郷土資料館の公開がはじまり、現在に至っています。
旧黒岩家住宅の建築構造
創建当時の旧黒岩家住宅は、現在の玄関から左半分の部分だけの形をしていました(旧棟)。玄関から右半分は、明治20(1887)年の現在地への移築から間もない時期に増築された部分です(新棟)。
間取り図左側の旧棟の特徴として、広間に続く中廊下を隔てて4つの部屋があるなど宿泊機能を備えた造りになっている点、キングポストトラスを採用している点などがあげられます。
キングポストトラスとは屋根の荷重を支える洋風の骨組みです。これは、三角形に組んだトラスと中央の束材(短い柱)で屋根を支える構造で、琴似屯田兵屋などにも同じ構造が使われています。
洋風の骨組みを採用した旧棟と異なり、新棟は梁と束で屋根を支える和風の小屋組で作られています。旧棟と新棟で異なる構造を採用している点は、旧黒岩家住宅の特徴の一つです。
また、旧棟は土間や馬小屋・納屋を設けるなど、農作業に適した造りとなっています。
旧黒岩家住宅(簾舞郷土資料館)の展示案内
旧黒岩家住宅の旧棟
入口の左手にある広間から奥が旧棟で、通行屋として創建された当時とほぼ同じ造りをとどめている様子を見学することができます。
また、建物の由来や特徴などを説明するパネルがあるほか、随所に昔の調度品が置かれ、往時の様子を偲ぶことができるようになっています。
旧棟は中廊下の周りに4つの部屋が配置され、宿泊を想定した間取りになっています。この日は真冬日で、冷暖房設備がない館内は、コートを着ていてもかなり寒かったです。
防寒具も発達していない明治・大正の頃のこと、囲炉裏や火鉢だけで冬の寒さを凌ぐのは、並大抵のことではなかったでしょう。
山間にある簾舞地区では、熊が畑のトウモロコシをかじる音が毎晩聞こえた、熊に襲われて片腕をなくしたものの無事に生還したなどの、熊にまつわる逸話が多く伝わっています。
旧黒岩家住宅の新棟(簾舞郷土資料館)
入口を含む建物右側は明治20年頃に増築された新棟で、簾舞郷土資料館として地区の歴史を伝える資料が展示されています。
当時は土間に炊事場があるのが一般的でしたが、宿屋を兼業していた黒岩家では「すわり流し」といって、床上に台所を設置していました。
ここでは実際に住宅として使われていた建物であることを活かし、人形などを使った再現展示が行われています。
大正7(1918)年に開通した定山渓鉄道は白石から定山渓温泉を結ぶ鉄道です。簾舞にも駅が設けられ、地区の発展に大きな影響を与えました。
資料館には、昭和44(1969)年に廃線となった定山渓鉄道に関連する品々が、数多く展示されています。
交通機関が発達し農業の機械化が進むまで、馬は移動・運搬や農耕に欠かせない存在でした。山に囲まれた簾舞では林業も盛んで、冬の農閑期には馬を利用して山から造材を搬出していました。
半鐘櫓(はんしょうやぐら)
建物の正面右横にある櫓は平成5(1993)年に復元されたもので、かつて実際に使われていた半鐘(火事や洪水などを知らせる釣鐘)が取り付けられています。
開拓初期は、倒木や刈草の焼却などが原因でたびたび山火事がおきていたそうで、郷土資料館でその写真を見ることができます。
旧黒岩家住宅(簾舞郷土資料館 旧簾舞通行屋)へのゆきかた
簾舞入植者の暮らしぶりを今に伝える貴重な建物
現在の国道230号線は簾舞のあたりまで商店や住宅が立ち並び、石山と簾舞、定山渓の計3戸しか家がなかった明治の本願寺道路の頃の面影は、すっかり姿を消しています。
そのような中で、本願寺道路開通時に建てられた旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)が今も簾舞の地に残っているのは、とても貴重なことだと思います。
札幌市の中心部からは少し距離がありますが、定山渓や中山峠、洞爺湖方面へドライブする機会がありましたら、旧黒岩家住宅へ寄り道してみてはいかがでしょうか。