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博物館・資料館・美術館

つきさっぷ郷土資料館(札幌市豊平区)

2024年7月13日

月寒の歴史を体感、つきさっぷ郷土資料館

つきさっぷ郷土資料館の玄関先

札幌市と室蘭市を結ぶ国道36号線沿いに広がる、豊平区の月寒地区。

現在は大小の商業施設や住宅が立ち並ぶこの地域ですが、戦前は田畑が広がる農村でした。

そして、旧豊平町の行政の中心地、更には旧陸軍の歩兵第25連隊が駐屯する軍都として発展した歴史があります。

そんな月寒の歴史を今に伝えるのが、つきさっぷ郷土資料館です。

今回は、レンガ造りのレトロな雰囲気が印象的なこの資料館を訪ね、月寒の歴史について詳しく学んできました。

月寒の歴史

開拓のはじまり

明治6年ごろの月寒村を描いた「新道出来形絵図」
明治6年ごろの月寒村(「新道出来形絵図」北海道大学付属図書館蔵)

月寒の歴史は、明治4(1871)年に44戸185人の移住者たちが現在の岩手県から入植したことから始まります。

彼らは札幌本道(現在の国道36号線)沿いに集落を形成し、厳しい自然環境の中で開墾に励みました。

当初は官給による物資の補助があったものの、農業に加えて薪や炭を作って札幌へ売りに行くなど、その生活は決して楽ではありませんでした。

入植から3年が経ち官給が終了すると、離村する者も少なくありませんでしたが、新たな移住者も加わり、原生林が広がっていた月寒は、徐々に農村へと姿を変えていきました。

軍都、行政の中心地となる

明治44年頃の歩兵第25連隊
明治44年頃の歩兵第25連隊(北海道大学付属図書館蔵)

明治29(1896)年、月寒の地に旧陸軍第7師団が置かれます。

軍都となった月寒は札幌本道に面して商店が立ち並び、人口も急増しました。

第7師団は明治32(1899)年に旭川へ移転しますが、その後も歩兵第25連隊はこの地にとどまり、月寒の発展に大きな影響を与えました。

さらに、明治43(1910)年には、現在の豊平地区が札幌区に編入したのに伴い、豊平町役場が豊平から月寒に移転し、月寒は行政の中心地としても重要な役割を果たすようになります。

戦後の月寒

現在の国道36号線
現在の国道36号線

昭和20(1945)年の終戦に伴い、陸軍は月寒の地を去り、その弊社は海外からの引揚者の住宅として利用され、人口がさらに増加。

また、軍の施設があった土地は一般に払い下げられ、昭和28(1953)年には札幌本道が北海道で初めてアスファルト舗装化され国道36号線となります。

月寒には商業施設や住宅が立ち並び、地域一帯の中心地として栄えました。

昭和36(1961)年には豊平町が札幌市と合併し、行政の中心地としての役目を終えた月寒ですが、その後も宅地化は進み、いつしか田畑は姿を消していきました。

平成6(1994)年には地下鉄の延伸に伴い月寒中央駅ができ、交通の利便性が向上した月寒には、現在も多くの人々が暮らしています。

つきさっぷ郷土資料館を訪ねて

つきさっぷ郷土資料館の収蔵資料数は約4,000点と、市内の郷土資料館の中でも豊富な資料数を誇ります。

予想以上の見ごたえに、1時間ほどを予定していた滞在時間は、実際にはその倍ほどになりました。

つきさっぷ郷土資料館の門柱

「つきさっぷ」は、開拓初期から戦前までの月寒の読みです。

新たな住民が「つきさむ」と読んでしまうことから、昭和19(1944)年に町議会で「つきさむ」と読むように決められました(一説に、北部軍司令部の命令があったとも)。

なお、月寒という地名はアイヌ語に月寒川のアイヌ語地名に由来し、その意味は「チ・キサ・プ(われらが木をこするもの」や「チ・ケシ・サプ(丘のはずれの下り坂)」などの説がありますが、定説はありません。

つきさっぷ郷土資料館の建物

つきさっぷ郷土資料館の建物

赤レンガの外壁と車寄せが印象的なつきさっぷ郷土資料館の建物は、昭和16(1941)年に旧陸軍の北部軍司令官官邸として建てられました。

階段の手すりのデザインに古代ギリシアのコリント様式を取り入れるなど、当時としてはモダンな建物だったのではないでしょうか。

終戦後、この建物は進駐軍に接収され、更に昭和25(1950)年から昭和58(1983)年まで北海道大学の学生寮として使用されました。

その後、昭和60(1985)年につきさっぷ郷土資料館として開館、平成7(1995)年の増築を経て、現在に至っています。

前庭の石碑

つきさっぷ郷土資料館の前庭には、旧陸軍関連の3つの石碑がひっそりと佇んでいます。

いずれも歩兵第25連隊の戦争歴史記念館の側に建てられていたもので、平成18(2006)年に現在地へ移されました。

皇太子殿下御野立所碑

皇太子殿下御野立所碑

明治44年、当時の皇太子(後の大正天皇)が北海道行啓の際に、月寒の第25連隊を訪れたことを記念して建てられたものです。

皇太子殿下御野立所碑

艱は快なり碑

大正5(1916)年、大正天皇の即位記念事業として下士官集会所が竣工した際に建立された記念碑です。
碑文は明治28年の詔勅文から「艱」「快」の2文字を取ったものではないかという説があり、「は(盤)」「り(梨)」(括弧内は字母)は変体仮名で書かれています。

皇太子殿下御野立所碑

聖蹟碑

昭和11(1936)年の陸軍特別大演習に統監として昭和天皇が行幸し、第25連隊で演習の講評を行った後に戦争歴史記念館を訪れたことを記念して建てられたものです。

屋外展示

つきさっぷ郷土資料館の屋外展示

資料館の右横には、大型の農機具などを展示するプレハブ小屋があります(一部は屋外に展示)。

市内の郷土資料館でお馴染みの唐箕はもちろん、発動機や除草機、コークスストーブなどが展示されていました。

資料館1階

前庭を一通り見て回った後は、いよいよ資料館の館内へ。

レトロな金庫が置かれた玄関でスリッパに履き替えて入館します。

エントランス

つきさっぷ郷土資料館に展示の、過去の月寒の地図と昭和初期の月寒のジオラマ
つきさっぷ郷土資料館の1階エントランス

エントランスには、各時代の月寒の地図や昭和初期の月寒を再現したジオラマが導入として展示されています。

また、昔懐かしいおもちゃの数々や円型ポストもあり、館内のレトロな雰囲気を一層引き立てていました。

1号展示室

つきさっぷ郷土資料館の1号展示室の様子

1号展示室は「開拓のつちおと」をテーマに、月寒の開拓と農林業を中心とした各種産業に関連した資料が展示されています。

まず目に飛び込んでくるのは農機具の数々です。鋸や鍬などの伐採道具、鍬や鋤などの耕運道具、蹄鉄などの馬具など、当時の農林作業を支えた道具が豊富に展示されています。

つきさっぷ郷土資料館に展示の種芋の俵

月寒の農業は畑作中心で、おもな作物は豆や麦でした。中でも、札幌麦酒で使われるビール麦や、軍馬の飼料となる燕麦の栽培が盛んに行われていました。

また、野菜や果物も栽培され、特にジャガイモは食用から始まり、昭和の初めには本州向けの種イモも出荷するようになりました。

農林業以外の産業で使われた道具も展示されています。
ここでは、その中から印象に残ったものをいくつかご紹介します。

つきさっぷ郷土資料館のポン菓子製造機

ポン菓子製造機。

詳しい説明と共に材料となる米やトウモロコシも並べられており、より理解が進むよう工夫された展示となっています。

つきさっぷ郷土資料館に展示の毛糸紡ぎ機

毛糸紡ぎ機。

終戦後の物資不足の時代、月寒地区の各農家では数頭の綿羊を飼育し、毛糸を紡いで衣類を作っていたそうです。

つきさっぷ郷土資料館に展示のアンティークの革靴用ミシン

靴屋で使われていたミシン。

現代でも有名なシンガー製です。革靴用ということで、家庭用とは異なる造りになっています。

資料館2階

つきさっぷ郷土資料館の階段

続いては、1階エントランスの階段を上って2階へ向かいます。

階段の壁には、昭和30年代前半の月寒の写真や入営祝の幟などが展示されており、何度も足を止めてしまいました。

2号展示室

つきさっぷ郷土資料館の2号展示室の様子

2号展示室は、月寒の歴史を語る上で欠かせない旧陸軍関連の展示室です。

ここには、武器や軍服などの各種装備、各種教本や公文書、勲章や徽章、当時の写真などが所狭しと展示されています。

明治29年の第7師団の設置以来、歩兵第25連隊や北部軍司令部など、終戦まで陸軍が駐屯していた月寒。
陸軍施設が置かれたことで、月寒は人口が増加し、商店街が形成されました。

また、後述のアンパン道路の建設に協力したり、月寒神社の遷宮に関わったりと、戦前の月寒の歴史・発展と陸軍は切っても切れない関係にありました。

2号展示室の充実ぶりからも、その関係の深さが感じられます。

つきさっぷ郷土資料館の2号展示室の樋口季一郎中将に関する展示スペース

また、展示室の一角には、北部軍司令部の第2代司令官だった樋口季一郎中将に関する展示スペースが設けられています。

ここには、司令官官邸だった資料館の最後の主でもあった樋口中将の直筆の書や遺品のコートとスーツケースなどが展示され、その功績や人柄を偲ぶことができます。

3号展示室

つきさっぷ郷土資料館の3号展示室の様子

2号展示室の隣にある3号展示室は、他の展示室よりも一回り小さく、地券や契約書、証文などの古文書や写真を中心に、月寒の歴史を紐解く資料が展示されています。

つきさっぷ郷土資料館のアンパン道路に関する展示

豊平町役場の月寒移転に伴い、平岸と月寒を直接つなぐ道として明治44(1911)年に完成した「アンパン道路」の紹介。

この印象的な通称は、道路建設に協力した第25連隊の兵士に、一日5個のアンパンが配られたことに由来します。

ちなみに、現在も「月寒あんぱん」として販売されているこのアンパン、名前は「あんぱん」ですが、パンとは少々異なり、よく焼かれた薄皮の生地でこしあんを包んだ、日持ちのよい和菓子です。

月寒あんぱん

4号展示室

つきさっぷ郷土資料館の4号展示室の様子
つきさっぷ郷土資料館の4号展示室の様子

4号展示室のテーマは「昔の暮らし」。ここでは、明治時代から昭和中期頃までの様々な民具を見ることができます。

その内容は衣・食・住に関わる生活用具から、スキー板やスケート靴、レトロな看板などに至るまで多種多様。
旧豊平町役場の職員バッジといった、ご当地色豊かなものも展示されていました。

つきさっぷ郷土資料館に展示のアンティークの家庭用ミシン

明治時代の手回しミシン(左)と大正時代の足踏みミシン(右)。

1号展示室に展示された同じシンガー製の革靴用ミシンと比べると、だいぶ形が異なりますね。

北海道独特の百人一首「下の句かるた」も展示されていました。

取り札が木製の変体仮名で、下の句を読んで下の句を取ります(上の句の存在価値とは…)。

つきさっぷ郷土資料館に展示の下の句かるた
つきさっぷ郷土資料館に展示の手廻し式洗濯機

謎の金属製の丸い球は、膨張圧力を利用した手廻し式の洗濯機です。

お湯と石鹸、洗濯物を入れて気密蓋で密閉し、10秒ほどハンドルを回して終了と、使い方も簡単。

昭和32(1957)年に発売されたものの、電気洗濯機の普及で姿を消してしまったそうです。

ボランティアの方々の熱意が支える、見応えのある郷土資料館

つきさっぷ郷土資料館の展示の様子

つきさっぷ郷土資料館は、月寒地区町内会連合会のボランティアの方々によって運営されています。

この日も、ボランティアの方々が熱心に展示品の整理や確認を行っている様子を拝見しました。

郷土資料館は地域の歴史を語り継ぐ大切な施設ですが、その運用や活用まで手が行き届かない資料館も多いのが現状ではないでしょうか。

そのような中で、つきさっぷ郷土資料館は、町内会やボランティアの方々の熱心な活動により、充実した内容の展示と丁寧な運営が成り立っていると感じました。

月寒の歴史に興味のある方は、ぜひつきさっぷ郷土資料館を訪れてみてください。
きっと、多くの発見と学びがあるはずです。

アクセスと開館時間

アクセス;札幌市営地下鉄東豊線「月寒中央」駅または「美園」駅より徒歩16分
開館時間;10:00 ~ 16:00
開館日;4月~11月の水・土曜日 ※冬期休館
入館料;無料
公式HP;札幌市役所月寒地区町内会連合会

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参考文献
「さっぽろ文庫1 札幌地名考」(札幌市教育委員会 編/1977年)

「つきさっぷ歴史散歩」(月寒史料発掘会 編/2005年)
「写真で見る札幌の戦跡」(札幌郷土を掘る会 編/2010年)
「豊平区の歴史 増補改訂版」(札幌市豊平区 編/2024年)

  • この記事を書いた人

福島智美

札幌生まれ、札幌育ちの文学修士。学術からビジネス実務の道へ転身し、山口と共に起業する。学芸員資格者でもあり、北海道博物館での実習経験もある。本サイトでは史跡や寺社などを担当。趣味は和装とフィギュアスケート観戦。

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