平岸郷土資料館の概要
リンゴの里の面影を知る郷土資料館

平岸郷土資料館は、札幌市豊平区平岸にある郷土資料館で、縄文時代から昭和までの地区の歩みを学ぶことができます。
明治時代から昭和中期ごろの平岸はリンゴの産地として知られていたため、リンゴ栽培に関する展示に特色がある資料館です。
平岸郷土資料館の入館方法

平岸郷土資料館は平岸児童会館と同じ建物の中にあります。資料館は施錠されていますので、入口右手側にある児童会館の事務室へ見学に来たことを伝えて鍵を開けてもらいましょう。
見学が終わった際も、事務室へ声掛けして施錠をお願いしてから退館するようにしましょう。なお、入館の際は入口で靴を脱いで備え付けのスリッパに履き替えることになります。

向かって左側のレンガ色の部分が資料館で、右側の黄色の部分が児童会館になっています(中央の奥まった場所が入口)。
平岸の歴史と郷土資料館の展示

小さな資料館ですので、壁4面と中央の棚両面で展示は全てとなります。入口右手の壁から「平岸のおいたち」の説明が始まっているので、ここを起点として時計回りに見学すると年代を追うことができるので分かりやすいでしょう。
それでは資料館の展示を交えながら、平岸の歴史について紹介していきます。
縄文時代の平岸

平岸では天神山の近隣などに複数の遺跡があり、土器や石器が発掘されたほか、竪穴住居やお墓、動物を捕まえるための落とし穴の跡なども見つかっています。
遺跡の年代は縄文時代から続縄文時代を経て擦文(さつもん)時代に至るまでの、およそ8千年前~800年前の間と推測されており、数千年もの長い歳月にわたって平岸一帯に人が暮らしていたことになります。


札幌市は遺跡が多く発見されていますが、平岸のように一ヶ所から縄文~擦文時代全ての遺物が発見されることは珍しく、豊平川流域の高台という生活に適した地理的条件が影響していたのではないかと思われます。
資料館では石器や土器以外にも、縄文時代の人々の生活を描いた絵も展示されています。

平岸の開拓のはじまり

明治時代となり政府が北海道の開拓を本格的に進める中、明治4(1871)年に岩手県水沢(現在の奥州市)出身者を中心とした65戸が現在の平岸通沿いに入植し、これが平岸の開拓の始まりといわれています。
右の写真は開拓初期の平岸地区です(北海道大学北方資料データベースより転載)。
北海道開拓使によって細い道(現在の平岸通)が造られて家も支給されましたが、開拓民達はその家よりもはるかに背の高い木が生い茂る原野を切り拓いていかなければなりませんでした。

地下水源が潤沢だった札幌にあって、平岸は井戸を掘っても良質な水が得られず、毎日豊平川へ水汲みに行く必要がありました。
これでは大変だということで、入植から間もない明治6(1873)年、村人が総出で協力して精進川の水を引く用水路を造成することになったそうです。

麻畑村と呼ばれた頃

岩手県の水沢から入植した人々は、故郷にいた頃と同じように麻を栽培して漁網を作ろうとしました。この試みは成功し、当時の平岸は「麻畑村」と呼ばれるようになります。
しかし、数年たつと連作障害があらわれて徐々に収穫量が落ちてしまいました。また、入植から3年間は開拓使から食料の支給が約束されていましたが、その期間が満了してしまうと平岸を離れる人々も多かったようです。
明治10年代になると、平岸に残った人々は麻の栽培をやめ、リンゴを中心とした果樹栽培をはじめます。

リンゴの里として栄える

北海道開拓使では外国人の開拓顧問のホーレス・ケプロンの進言にもとづき、入植者に果樹の栽培、特に寒冷地でもよく育つリンゴの栽培をすすめていました。
そして開拓使から道内の農村に果樹の苗木が配られることになったのですが、その中には平岸も含まれていました。平岸でこの苗木が初めて実をつけたのは、明治15(1882)年頃だったと言われています。

大通公園に建つホーレス・ケプロン像。米国の農務局長だったケプロンは、当時渡米していた黒田清隆に懇願されて北海道開拓使顧問に就任し、都市建設や殖産に尽力しました。
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現在、リンゴの生産地としては青森県が有名ですが、実は明治時代まで北海道が生産量日本一で、その中でも札幌がリンゴ栽培の一大拠点でした。
札幌で栽培されたリンゴは、日本国内だけではなく中国やロシアなどの海外にも輸出される人気ぶりでしたが、明治末期から大正時代にかけて病害虫が流行し、栽培をあきらめる村が続出しました。

リンゴ栽培受難の中、平岸では「平岸果樹組合」を設立し、生産者が協力して栽培方法の改善を進めたり、農薬・肥料・農具などの共同購入をするなどの対策を講じました。
このような努力と工夫によって平岸は危機を乗り越え、札幌のリンゴ生産の中心地に成長していったのです。


リンゴの袋掛けは元々「心喰虫(しんくいむし)」という害虫から実を守るためのものでした。資料館の籠の中には、リンゴの袋掛けに使われていた当時の新聞紙も一緒に展示されています。
平岸リンゴのその後

昭和初期には北海道大学から栽培法の指導を受けたり、青森のリンゴ農家でひと冬を過ごしてその技術を学ぶなどの努力が重ねられ、平岸の果樹園では経営の合理化や栽培技術の向上が図られました。
平岸リンゴの最盛期にあたる昭和20年代には、約270ヘクタールの栽培面積(中の島や澄川といった近隣地区も含む)を誇るようになります。
しかし産業近代化による農地の宅地転用が進んで、昭和30年代には生産量が減少、現在では環状通のうち豊平区役所前から国道36号線の区間の中央分離帯に植えられたリンゴ並木に、その面影を残すのみとなっています。


環状線のリンゴ並木のそばに建てられた「りんご並木の碑」の題字の元となった掛軸です(環状線にリンゴが植樹された当時の札幌市長であった板垣武四氏の手によるもの)。
その他の展示物

平岸郷土資料館は遺跡の出土品やリンゴ栽培に関連する展示に特色がある資料館ですが、その他の日用品なども多く展示されています。

馬そりや馬具一式
これらは冬季に人や物を運搬するのに使われました。馬そりは雪の積もる北海道の冬に適していることから、開拓使がロシアから導入したものです。夏は馬車、冬は馬そりと馬は生活に欠かせない動物でした。
唐箕(とうみ)
穀物を籾殻と玄米などに選別する農具です。精進川から引いた用水路の整備が進んだ明治20年代以降、平岸とその周辺でも本格的に稲作が行われるようになりました。


長火鉢
現代のような高気密・高断熱住宅の無かった時代に、このような小さな長火鉢で暖を取って北海道の冬をしのいだ開拓時代の人々の忍耐力には心底頭の下がる思いです…。
開拓時代の書簡など
その他に開拓初期からの豊平区や平岸地区に関する様々な書簡や帳票などの貴重な資料も展示されています。


平岸地区開基の頃からの写真
旧陸軍では訓練を兼ねて参拝行軍を敢行していたという記録が全国の平和資料館で散見されます。写真は相馬神社へ向かう一行の様子ですが、のどかな光景ですね。
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平岸リンゴ園のその後


平岸リンゴの生産がピークだった頃から70年経った現在の平岸です。かつてリンゴ園だったこの一帯はすっかり宅地化され、国道453号線をはじめ環状線・環状通や平岸通などの主要幹線道路が交差する豊平区の中でも交通量の多いエリアとなっています。
平岸には地下鉄南北線の平岸駅と南平岸駅もあります。平岸郷土資料館はこれら2つの駅の中間地点に位置しており、ちょうど資料館のあたりで南北線は地中から地上運行に切り替わるため、資料館付近から真駒内まで地下鉄のシェルターが延びています。
実はこのシェルターに覆われた路線は、大正時代から昭和40年代半ばまで定山渓鉄道が運行されていました。リンゴ園の中を昔の鉄道がガタンゴトンと走ってゆくノスタルジックな情景を思い浮かべながら、資料館を見学したり、周辺を散策してみたりするのもまた趣があって良いですね。
アクセスと開館時間

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